イエスを信じるとは 使徒の働き13章26~41節

【新改訳2017】使
13:26 アブラハムの子孫である兄弟たち、ならびに、あなたがたのうちの神を恐れる方々。この救いのことばは、私たちに送られたのです。
13:27 エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちのことばを理解せず、イエスを罪に定めて、預言を成就させました。
13:28 そして、死に値する罪が何も見出せなかったのに、イエスを殺すことをピラトに求めたのです。
13:29 こうして、彼らはイエスについて書かれていることをすべて成し終えた後、イエスを木から降ろして、墓に納めました。
13:30 しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。
13:31 イエスは、ご自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人たちに、何日にもわたって現れました。その人たちが今、この民に対してイエスの証人となっています。
13:32 私たちもあなたがたに、神が父祖たちに約束された福音を宣べ伝えています。
13:33 神はイエスをよみがえらせ、彼らの子孫である私たちにその約束を成就してくださいました。詩篇の第二篇に、『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ』と書かれているとおりです。
13:34 そして、神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちて滅びることがない方とされたことについては、こう言っておられました。『わたしはダビデへの確かで真実な約束を、あなたがたに与える。』
13:35 ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。『あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません。』
13:36 ダビデは、彼の生きた時代に神のみこころに仕えた後、死んで先祖たちの仲間に加えられ、朽ちて滅びることになりました。
13:37 しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちて滅びることがありませんでした。
13:38 ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです。また、モーセの律法を通しては義と認められることができなかったすべてのことについて、
13:39 この方によって、信じる者はみな義と認められるのです。
13:40 ですから、預言者たちの書に言われているようなことが起こらないように、気をつけなさい。
13:41 『見よ、嘲る者たち。驚け。そして消え去れ。わたしが一つの事をあなたがたの時代に行うからだ。それは、だれかが告げても、あなたがたには信じがたいことである。』」

 

私たちへの救い(26

 

本日の箇所は、パウロがピシディアで語った説教の後半です。「この救いのことばは、私達に送られたのです」を原語で読むと、「私達に!この救いの言葉は送られたのです」となり、「私達」が強調されています。つまり、パウロはあらゆる人種を越えて、救いが「私達に」開かれていると言うのです。この救いの言葉に無関係、例外はいません。イエス様は時代を越えて、二千年後の日本にいる私達にも救いを受け取ってほしいと願っておられます。

 

イエスの死とよみがえり(2732

 

27節からは救い主イエス様が、どんな救い主なのかについて語られています。私達の救い主は、力や権力によって救いを下さったのではなく、自らの死によって、救いを与えて下さいました。イエス様は十字架にかけられる時、沢山の人に罵られ、痛めつけられました。そして十字架上で死ぬ直前、こう言われました。「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます」イエス様は神様に自らの身をお委ねすることで救いを達成されたのです。

 

これは、力と権力によってローマ帝国を打ち倒すより、難しいことです。イエス様はローマ帝国を倒すだけの知恵、そして民衆を動かす力があったかもしれません。しかしイエス様は、「自分の能力を示す誘惑」に勝ちました。神に仕えること以上に、自分の能力を示すことに満足を見出す誘惑に勝ったのです。そしてイエス様は神様に与えられた自分の使命「十字架にかけられて死ぬ」ことにまっすぐ進まれたのでした。

 

 神様は力強い御手でイエス様を死からよみがえらせました。27節から31節で強調されているのは、すべて神様の計画の内であったことです。

 

 人々がイエス様を殺したのは、神の預言を成就させることでした。神様は十字架で無実の方を殺すという恐ろしい悪をも益に変え、イエス様の救いを達成されました。

 

よみがえりの根拠(3337

 

パウロは次に旧約聖書から三か所、御言葉を引用して、イエス様が救い主であることの根拠を語ります。詩編2篇では、神様がお立てになった王様を、人々が敵対視しています。「敵対されている、神様がお立てになった王」、これは人々に敵対されながら、十字架にかけられたイエス様と重なります。詩編二篇はイエス様がお生まれになる遥か前に書かれた書ですが、イエス様のことが預言されているのです。パウロはここで詩編二篇を引用することで「これがイエス様でなくて誰なんだ」と主張しているのです。「あなたを生んだ」とは恐らくよみがえりを表しているでしょう。よみがえりとうまれることは、密接な関係があるからです。

 

聖書にはこんな言葉があります。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。私達は罪深い自分に一度死んで、新しく生まれ変わらなければ、天の御国に行くことはできません。人の罪はそれほど深いのです。

 

イエス様は、罪のないお方でした。だから新しく生まれる必要はありませんでした。しかし私達の永遠の死に至る罪の身代わりとなって死んでくださいました。ですから私達は永遠の死に至る必要はありません。自分の罪を悔い改め、新しく生まれ変わることによって、救いを得ることができるのです。救いとは、私達の目の前にある問題が解決される以上に、罪深い自分に一度死んで、生まれ変わることにほかなりません。外側以上に、内側の刷新なのです。

 

ダビデへの確かな約束(34)とは、ダビデの子孫が永遠に滅びない王国を建てるという約束です。人間は自分の王国を永遠に建たせることはできません。このダビデへの確かな約束を果たすことができるのは、永遠に生きる神様だけです。つまり復活のイエス様なのです。パウロはここで「永遠の王国を建てることができるダビデの子孫こそ、イエス様である!」と主張しているのです。

 

35節には詩篇1610節が引用されています。ここで「イエスが人間ダビデのように朽ちて滅びない存在である」ことを示しています。こうしてパウロは三つの旧約聖書引用によって、イエス様こそ、救い主であることの主張を強めました。

 

イエスは私に何を与えるのか(3841

 

ここまでのパウロの説教は、イエス様が救い主であることを証明するために、実に壮大な展開をしてきました。先週の箇所ですが使徒の働き1317節では、千年以上に及ぶ旧約聖書の歴史を回顧し、そして今週は幾つかの旧約聖書を引用することで、イエス様こそ救い主であると大胆に主張しています。

 

そしてそのイエス様が私達に与えてくださる救いとは、38節「罪からの救い」です。ある人にとっては拍子抜けかもしれません。しかしこれは「貧乏や病気から救われる以上に」私達に必要な救いなのです。

 

 私達はこの罪に「したくない悪」をさせられ続けます。自由な歩みをしているつもりが、その足は永遠の死に向かっているのです。この罪が赦されるためには、罪を犯していない命を犠牲にしなければなりません。ですから旧約聖書では傷のない動物の命が、罪の捧げ物だったのです。イエス様は私達のために、罪のない捧げ物として、十字架にかかって死んでくださいました。これにより、私達に罪からの救いが与えられるのです。私達は自分の罪を認め、悔改める、「イエス様を信頼すること」で救いを得ることができます。まだ救いを受け取っていない方は、是非祈りの中で罪を悔い改め、イエス様を信じる告白をしましょう。そしてイエス様から与えられた救いに感謝しつつ、神様と共に新しく生まれた人生を歩んでいきましょう。

 

 そして救われた人達は、イエス様のように神様と人を愛する生き方を選びましょう。教会はその神と人を愛する生き方を体験的に知る場所です。イエスはかっこ良いヒーローのように私達を救われたのではありません。私達は本当に人を愛そうとする時、プライドが傷つけられ、恥を見る覚悟がなければならないでしょう。しかしそんな時、主の謙遜の姿を思い出しましょう。イエス様は素晴らしい知恵、力があったのに、それを行使せず、仕える者となられました。自分の能力を示したいという誘惑に勝利し、主に命じられたことを行うという謙遜な姿勢を貫かれたのです。私達が人の評価になびこうとする時、神様は「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と仰って下さっている神様に目を留めましょう。救い主イエス様の救いを受け取り、イエス様の謙遜な姿にならって今週も歩んでいきましょう。

天の父なる神様。御言葉を通して、あなたの救いを知ることができてありがとうございます。ここにいる私達すべてにこの救いが提示されています。私達を支配する罪の悪から、私達を永久に救い出す、力強い救いです。神様この救いを受け取ります。そしてイエス様の御跡にしたがって、謙遜な歩みをしていきます。(2019317日礼拝 武田遣嗣牧師