ここに、イエスの愛が マタイの福音書11章28~30節

 

マタ

 

11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

 

11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

 

 北海道の苫小牧にある糸井教会は、197810月にOMFのフェニホフ夫妻により開拓され、その後歴代7宣教師夫妻と4日本人牧師が奉仕をしてきました。私は、5人目の日本人牧師になります。また、この教会はOMFの有沢達郎たまみ宣教師をタイに派遣しており、毎月、宣教祈祷会を持っています。現住陪餐会員は13名、礼拝出席者は11名、祈祷会出席者は89名です。この教会の特徴は、10年前から年に3回、三浦文学の講演会を持っていることで、近隣の方も出席しておられます。感謝を含め祈りの課題ですが、今年4月に北見出身の片岡兄弟が伝道師に就任、来年4月に牧師になります。私はこの1年間片岡兄と共に奉仕をし、その後湊に戻ることになっています。また、私たちの健康のためにもお祈りください。

 

 さて、今日の個所でイエス様は、ご自分がメシア、救い主であることを明確に答えられ、二つの約束をはっきり語っておられます。まず、28節は第一の約束(罪からの解放)への招きです。「疲れた」とは、色々な病気や不幸、苦しみで疲れ切っているということも含まれていますが、根本的には神様の命令に背いた罪(積極的な罪)による疲れなのです。また、「重荷を負う」とは、神様の命令に従わない罪(消極的な罪)による疲れです。この二つの罪は、すべての人が持っています。イエス様はそういう人間の疲れ、重荷から解放するために私たちを招いておられます。

 

 第一の約束「休ませてあげます」は、罪から私たちを解放し、神様のかたちにつくられた人間本来が持っている平安を与えるということです。イエス様を自分の救い主として信じた時の平安は、何にも代えがたいものですね。第二の約束(29)は、人間として生きよということで、「わたしのくびきを負いなさい」とは、イエス様と共に神と人のために生きるようにという意味です。「わたしから学びなさい」は、イエス様に従い、イエス様の弟子となって生きなさいということです。ですから第一の約束は、人間への回復による平安、罪がゆるされた平安であり、第二の約束は、本来神様につくられた者として与えられる平安を指しているのです。

 

 少し細かく見ると、「たましい」はマタイ1039では「いのち」と訳されています。つまり、「たましいに安らぎがきます」とは、いのちそのものに安らぎがくるということです。そして「安らぎ」とは、再び力づけられる、新しいいのちにみなぎること、「来る」は自分のものとする(得る)とも訳されて(マタイ1039)います。私たちは肉体が疲れたり、弱っていても、イエス様のくびきを負って神と人のために仕えていくと、本当の安らぎが与えられ、力がみなぎるわけです。正直、今日私の体調は決して良くないのですが、もし教会に来なかったら、私のたましいはもっと弱って、平安どころではなくなるでしょう。でも今こうやって、神様のあわれみで奉仕をさせていただき、これを通して神様が力がみなぎるように、たましいの安らぎが自分のものとなるようにされていることを味わうことができます。

 

 このような働きは、メシアしかできません(エレミヤ3125)。エレミヤ書はイエス様が来られる約650年前に書かれた書ですが、今日の個所ではイエス様がその預言されたメシアであると仰いました。口先だけの救い主ではありません(マタイ1621)。ここにこそ、イエス様の愛があります。私たちが疲れた時、重荷を負っている時、イエス様の愛を覚えてイエス様に頼り、またイエス様のくびきを負って、本来の人間として生きる時に与えられる平安を日々味わいたいと思います。

 

 天の父なる神様、今日こうして共に、あなたこそ私たちの救い主であることをもう一度教えていただき、感謝します。そしてイエス様は、私たちの罪による疲れ、重荷を取って下さり、それだけでなく、本当の平安を与える方であることを覚えて感謝します。愚かな私たちですが、このイエス様に頼り、イエス様のもとに行って、イエス様だけが与えて下さる平安、いのちのみなぎりを日々味わわせて下さい。(2020.02.02礼拝 細川勝利師)