「春の小川」、「早春賦」、「仰げば尊し」、「思い出のアルバム」、「主とともに罪に死に(福音讃美歌312番)、「ふるさと」を歌いました。参加者は7名でした。
ルカ24:13~35
イエス様の二人の弟子は、エマオに向かっていました。恐らくそこは、彼らの故郷だったのでしょう。本来、帰郷は嬉しいものですが、彼らの心は悲しみに打ち沈んでいました。というのは、イエス様が3日前に十字架にかかって死んだからです。彼らは尊敬する師を失った深い喪失感に苛まされていました。しかしこの悲しみを慰めたのは、イエス様本人でした。但しイエス様はすぐにご自分を明らかにせず、彼らに悲しみの中で死と復活について考えさせました。イエス様は二人に、聖書全体について話をされました。聖書には、この世界の始まりから完成まで、神様の計画があるということが書かれています。弟子たちにはイエス様の死しか見えていませんでしたが、イエス様は彼らに神様の大きな計画を知らせました。弟子たちは、イエス様の死はとても悲しいけれど、これは神様の大きな計画の一部であって、将来このイエス様の死によって大きな喜びが起こることを知ったのではないかと思います。
私は牧師ですので、葬儀を行うこともあります。そしてその度に亡くなられた方を思い、悲しくなります。でも聖書を開いていくうちに、神様の大きな計画が見えてきます。死は悲しいけれど、この方はいつか必ずよみがえる、という希望を持って葬儀の奉仕をすることができます。皆さんは死に対して漠然とした不安や恐れがあるかもしれませんが、死から救い出すことのできるイエス様が、今日も皆さんと一緒に歩んで下さっています。
ここで一篇の詩を味わいたいと思います。
「あしあと」
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
私たちは家族の死に遭遇した時、孤独感や喪失感に苛まされるかもしれません。しかしイエス様はその場におられ、今日まで皆さんを背負って来られました。そして死を超える復活の希望を知りたいという願いがあるなら、イエスさまは聖書を通して私たちに教えて下さいます。来るイースターは、御言葉から復活の希望を感じるイースターにしたいと思います。(武田遣嗣牧師)
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