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憎しみを取り去る神 サムエル記第一18章6~16節

【新改訳2017】

Ⅰサム

18:6 皆が戻り、ダビデがあのペリシテ人を討ち取って帰って来たとき、女たちは、イスラエルのすべての町から、タンバリンや三弦の琴をもって、喜びつつ、歌い踊りながら出て来て、サウル王を迎えた。

18:7 女たちは、笑いながら歌い交わした。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

18:8 サウルは、このことばを聞いて激しく怒り、不機嫌になって言った。「ダビデには万と言い、私には千と言う。あれにないのは王位だけだ。」

18:9 その日以来、サウルはダビデに目をつけるようになった。

18:10 その翌日、わざわいをもたらす、神の霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。ダビデはいつものように竪琴を手にして弾いたが、サウルの手には槍があった。

18:11 サウルは槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろうと思ったのである。ダビデはサウルの攻撃から二度も身をかわした。

18:12 サウルはダビデを恐れた。それは、【主】がダビデとともにおられ、サウルを離れ去られたからである。

18:13 サウルはダビデを自分のもとから離し、彼を千人隊の長にした。ダビデは兵の先に立って行動した。

18:14 【主】が彼とともにおられたので、ダビデは、行くところどこででも勝利を収めた。

18:15 彼が大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。

18:16 イスラエルもユダも、皆がダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。

 人間は皆、ダビデとヨナタンのように、人を愛する生き方をしたいと願っていますが、どうしても人を憎んでしまうことがあります。今日は、憎しみにどう対処するのか、聖書から学びたいと思います。

 まず、サウルの憎しみがどのように始まったのか、お話しします(67)。「あのペリシテ人」とはゴリヤテのことです。イスラエルの人々は、ゴリヤテに勝ったダビデを英雄として迎えました。7節を原語で読むと、「打ち取った、サウル千、ダビデ万」というように、とてもシンプルでリズミカルな歌になっています。それもあってか、この歌は当時の流行歌になり、外国にも知られていたようです(2111295)。ダビデは万、は明らかに誇張です。なぜなら、彼は羊飼いで、戦で倒したのはゴリヤテ一人だからです。しかし、サウルはこの歌詞が気に入りませんでした。サウルは、自分より称賛されているダビデを憎むようになりました(8)。人が誰かを憎むきっかけは、様々だと思います。直接ひどいことを言われたとか、またサウルのように、自分より称賛されている人に嫉妬して憎むこともあり得るでしょう。サウルのような場合は、自分が嫉妬していることを認めたくないので、無意識のうちに憎しみが増大していきます。そしていつの間にか、ダビデを殺そうと思うようになりました。

 続いて、サウルが憎しみに支配されていく様子を見たいと思います(9)。サウルは憎しみの支配から逃れるために、二つの方法をとりました。一つは、ダビデを殺すことです(1011)。私たちは、憎んでいる人を殺そうとまでは思わないでしょう。しかし陰口を言って悪い噂を広め、相手を社会的に殺そうとすることは、あり得るかもしれません。そのような方法は、全く解決になりません。もう一つは、憎んでいる人と距離を置くことです(1315)。ダビデはサウルの道具持ちで、いつもサウルと行動を共にしていましたが、サウルはダビデを戦場に出る千人隊の長にして、普段は彼を見ないようにしました。しかし、いくら距離をとっても、サウルはダビデから目を離すことはできず、さらにダビデを憎むようになりました。

 では、恨まれている側のダビデは、サウルのことをどう思っていたのでしょうか。ダビデは1911でも槍を投げられています。その後もサウルに命を狙われ、外国に逃げなければなりませんでした。しかしダビデはサウルを、神様にたてられた王として尊敬し続けました。サウルは、ダビデにいつか王座を奪われるのではないかと考えていましたが、ダビデは王座を狙ってはいませんでした。ダビデが王になることを決断したのは、サウルが戦死してからであり、しかもダビデはサウルの死を一日中嘆き悲しんだのでした。ですから、サウルはダビデの命を狙う必要はなかったのです。サウルの内側から溢れ出る憎しみ、罪の心が彼をおかしくしてしまったのです。彼はダビデに負けたのではなく、自分の罪に負けた人でした。

 人の卑劣な行動を見て腹をたてる、これは悪いことではありません。しかし人を憎み続けることは、サウルのように自分を一番苦しめることになり、罪の奴隷になっていくことです。私たちは、自分自身の妬みを放置してよいはずがありません。私たちは自分の内ににある妬みと、どのように対峙したらよいでしょうか。聖書は、自分の力で自分の罪に打ち勝つことはできないと教えます。私たちがすべきことの第一は、イエス様から目を離さないことです。イエス様は、自分を憎んでいる人たちのために死んで、復活されました。イエス様は憎しみに勝利された神です。私たちはこの神様を見上げ、共に歩むことによって憎しみから救われ、礼拝やみことばの中でゆるしの深さを知れば知るほど、ゆるす者になっていきます。第二は、祈ることです。私たちが正直な思いを祈り続けていく中で、次第に自分の真の姿を知り、それを受け止められるようになっていきます。イエス様は、私たちの罪をゆるして下さいました。この神を信じるなら、どんな罪を犯した人でもゆるされます。このゆるしを受け取ることが、私たちが憎しみから解放される道なのです。

 

 天の父なる神様、みことばをありがとうございます。私たちはそれぞれ、人を愛して生きたいはずです。しかし私たちの心の内には罪があり、人を憎んでしまうことがあります。しかしイエス様は、この憎しみに勝利されたお方であることを、今日学びました。このイエス様から目を離さないで、あなたの救いのゆるしを受け取り、私たちもまた周りの人たちをゆるす生き方ができますように。主よ、どうぞ共にいて下さって、私たちが憎しみから解放されていくように助けて下さい。(2021725日礼拝 武田遣嗣牧師)